コンテンポラリーアートについて思うこと

最終更新: 2018年12月9日

長い人類の歴史の中で、ごく最近まで「芸術」が短期間に劇的に変化するなどという出来事はありませんでした。ラスコーの壁画、ツタンカーメンの黄金の棺、アクリポリス神殿の彫刻、ナスカの地上絵、システィナ礼拝度の天井画 ...。プリミティブか洗練されているかに関わらず、自然、超自然的ななものに対する畏怖、崇拝といった感情、宗教的な意味をシンボルとして表現するものか、あるいは、テサロニケのニケやミロのヴィーナス、ルネサンスの絵画のように人間の造形的な美を賛美するものでした。そして、個体間、異文化間、あるい異なる時代の被造物の絶え間の無い交流と認識をとおし、破壊と再構築されることによってゆっくりと進化してきました。しかし、産業革命という技術手段の革命が、過去になり大きな衝撃をあたえ、急激な変化をもたらすことになります。

19世紀はじめに発明された純粋に物理科学的な写真技術によってそれまで曖昧だったアートの定義はテクニックと芸術性に分解されました。それは「見えるものを正確に再現する」という才能のある画家だけに独占されていたテクニックが写真の発明によって解放された結果でした。しかしそれは解放と同時に、芸術とは何か?という本質的な問いかけの始まりになりました。19世紀後半に発生した印象派という芸術運動はその問いに答えようとするひとつの試みかもしれません。20世紀には、写真のもつ「複製」という性質によってオーセンティックな芸術から「希少性」という価値を剥奪するという更に純粋なアートの価値を問う創作的な試みが行われました。

芸術に衝撃を与えたの写真技術だけではありませんでした。21世紀にはいり、光を検出し管理する半導体と二進法がもたらしたデジタルイメージング技術によって、芸術は「触れることができるもの」から「触れることができないもの」まで含めた「ヴィジュアルアーツ(視覚芸術)」への拡大することになります。このことは、オーセンティックなアート、写真、映画、音楽、パフォーマンスといった、それまでバラバラに存在していた芸術を統合できる状態になり、もはや一部の評論家が把握できる範囲をはるかに超える存在となってしまいました。さらにインターネットという情報技術は芸術の本質の一つである「表現」を「時間と空間の制約」から解き放つことになりました。しかし一方で、科学・情報技術がもたらした衝撃によって芸術家は従来の安定した価値の拠り所を失うこととなります。これは創作する側である芸術家だけの問題ではありません。芸術を「消費」する消費者も混沌のなかに投げ込まれることになりました。


解放は自由をもたらしましたが、同時に、芸術の創作者と消費者、その両方に混沌をもたらし、混沌は困惑をもたらしています。現代人にとって芸術の価値判断のよりどころは世紀をまたがる時間によって生き残った芸術に普遍性を見出すことなのか、共感という曖昧で不安定な精神的つながりによって維持される細分化されたサブカルチャーに依存することしかないのでしょうか?いえ、もうひとつあります。自分の感性です。遺伝的な形質と蓄積された知覚の体験、社会とし蓄積された知を知性的に習得して構築された漠然とした価値観。これらは自分だけが用いることのできる秤となります。「自分の感性」?これほど曖昧で定義不可能なものはないかもしれません。しかし、これは実存の問題に答えることと同じではないでしょうか?「私はどこからきたのか?」合理的な答えはありません。自らの存在理由は自ら「感じる」以外無いからです。


好きなコンテンポラリーアートを探し出会うこと。それは既存の価値観から解き放たれた個々の価値観の凝縮され純化された断片に触れることであり、その共感できる断片に触れることで、自分の全体を見出していく旅なのかもしれません。そしてそれは、答えのでない実存の問題の答えを探す無意識の本能的な試みでもあります。



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